亀山 裕弘(カメヤマ ミチヒロ)
「ミチヒロ」と初見で読めた人は、これまで生きてきて一人もいません。
ですから、ちょっとした自慢です(笑)
昭和43年9月29日生まれ
でも、なぜだか戸籍上の誕生日は9月28日…
占いなどは、もちろん都合がいい方を採用することにしています。
岐阜県関市出身・在住
学生として4年、社会人として4年、東京に住んでいた以外はずっと岐阜。
以前住んでいた街は、東京(西永福・高円寺・荻窪)、岐阜市、大垣市、各務原市など。
家族 妻・息子(名古屋大学理学部)・お犬様(フレブルの女の子)
ヘルニアや緑内障など色々とありましたが、お犬様は10歳になりました。
「10歳からは神様からの贈り物」、本当にありがたいかぎりです!
保有資格
1級ファイナンシャル・プランニング技能士(NO.F102029033)
社会保険労務士試験合格(未登録のため業務は行えません)
学歴
関市立金竜小学校
関市立小金田中学校
岐阜県立関高等学校
明治大学・政治経済学部経済学科
趣味・嗜好
- 音楽
聴くのは専ら洋楽で、一般受けしないマニアックなもの(ex King Crimson)が好み。
中学からギターを始め、今ではピアノなど一通りの楽器を演奏。
良く言えばマルチプレイヤーですが、要はただの器用貧乏です…
最近はDTM(デスクトップミュージック)にはまっていますが、なかなか言うことを聞かないソフトに手を焼いています…
- バイク
バイクからは25年ほど遠ざかり、もう一生乗らないだろうと思っていましたが、お客様宅で大型バイクを拝見し、再びハートに火が!
すぐさま教習所に通い出し、悪戦苦闘の末、47歳にして大型二輪免許を取得。
現在の愛車はドゥカティのスクランブラー(800㏄)。
やっぱりバイクは楽しい!
ただし雨が降らなければ…
- 読書
もっぱら小説中心。
活字中毒なので、いつも身近に本がないと不安になります。
とはいえ、寄る年波には勝てず、ひどくなってきた老眼に悩まされている今日この頃…
好きな作家は、安部公房、中上健次、司馬遼太郎、藤沢周平、村上龍、西村賢太、レイモンド・チャンドラー、フランツ・カフカなど多数。
休日にお酒をたしなみながらの読書、最高です!
- 株式トレード
トレード歴は、かれこれ20年。
リーマンショックなどの大暴落を乗り越え、初心者の9割が1年以内に退場するという世界で、しぶとく生き残っています。
とはいえ、その過程ではずいぶんと勉強代を払わされましたが、おかげで今では普通に利益が出るように。
株に興味がある方は声をかけてください。
やめろと言われるまでしゃべり続けます!
- お酒
最後はやっぱりコレでしょう!
365日年中無休!
何でもOKですが、特に好きなのは焼酎とウイスキー。
経歴
- 少年の頃
きれいな水や美しい緑に事欠かない環境で育ち、来る日も来る日も自然の中を友人たちと駆け回り、中でも天下の清流長良川からは本当に多くの事を学びました。
夏休みになれば学校のプールになど目もくれず、朝から晩まで長良川。
新しい遊びを思いついたときの喜び、河原でHな本を見つけたときの興奮(笑)、溺死したわが子の傍らで泣き崩れる母親への憐れみ…
その都度、少年の心は大きく揺さぶられ、大人への階段を登っていきました。
親父は長男である私にとても厳しく、とにかく叱られてばかりでした。
小学校の高学年にもなるとビンタでは効果が望めないため、バトミントンのラケットなどで気合を注入されたことも…
誤解を招くかもしれませんが、決して虐待ではありません。
度を越す寸前の愛のムチです(笑)
それが理解できるようになったのはずいぶんと経ってからですが、おかげで昨今では死語になりつつある反骨精神やハングリー精神なるものが醸成されたのではないかと思っています。
- 高校時代
地元の岐阜県立関高等学校に進学。
東大に現役で合格するヤツもいれば、本当に関高生なのかというヤツもいて、振れ幅がある面白い学校でした。
ラグビー部に入りましたが、一向に身が入らずサボってばかり…
ところが、偶然が重なってレギュラーとなってからは否応なく練習に励むことになり、最後の大会となった高校総体県予選では準決勝まで進出。
敗れはしましたが、花園常連校の関商工から2トライを奪う善戦でした。
バンド活動(ギター担当)にも熱を上げ、3年生の秋には文化祭に出演。
すべての曲を終えると、思いもよらなかったアンコール!
持ち時間を超過していましたが、構わず私がイントロを弾きだすと、無慈悲にも電源を落とされ…(涙)
でも、あの歓声はいまだに忘れられません。
文化祭が終われば、いよいよ受験一色。
親父が疎ましかったことや田舎者なら誰でも持っている都会への憧れから、東京の大学を志望。
お前には無理だという先生たちの冷ややかな視線にも屈せず、なんとか明治大学政経学部経済学科に滑り込みました。
- 大学時代
夢にまで見た東京でしたが、「すげー!」といった興奮が長く続くはずもなく、授業を休んだってガミガミ言う人もいません。
ということで早々に学生の本分を忘れ、絵に描いたような自堕落な日々…
言うまでもなくお酒も存分にいただき、頭の方はともかく肝臓だけはバッチリ鍛えられました(笑)
大学では、創立1965年のアウトドアサークル「シュラフの会」に所属。
まぁ一言で言えば、とにかく変わったことをするサークルです。
例えば、下駄で山を登ったり、京都までヒッチハイクしたり、夜通し歩いて山手線を一周したり…
他にも色々とバカなことをしましたが、今となってはいい思い出です。
就職活動が始まりましたが、当時はバブル真っ盛りで超売り手市場。
Uターン希望だったので、地元では大手、さらには一番より二番がいいという理由で大垣共立銀行の門を叩いたところ、最初の訪問であっさり内々定。
就活スーツが少々億劫になっていたこともあり、必然的に他の選択肢は消滅しました。
ちなみに卒論を書いていませんが、なぜだか大学を卒業しています…(汗)
- 銀行員時代(営業店)
大垣共立銀行に入行後は営業一筋。
ホンダのスーパーカブを駆り、雨の時も風の時も疾走する日々が続きます。
負けず嫌いな私にとって、成果が数字として表れる営業という仕事は向いていたのかもしれません。
梅林支店、城東支店、岐阜支店と岐阜市内の3店を経たところで転機が訪れます。
やはりご縁があるのでしょうか?
地方銀行に就職したはずが東京支店へ異動となり、日立やNECなどの上場企業を担当。
最初はスケールの大きさに戸惑いましたが、最先端の金融を学べたことは大きな財産となりました。
また学生と違って懐にも余裕がありましたから、久しぶりの東京ライフをこれでもかとエンジョイしたことは言うまでもありません(笑)
- 銀行員時代(生命保険研修)
東京支店での勤務が3年半に及んだ頃、思いもよらぬ辞令が。
旧安田生命本社での半年間の研修を命じられたのです。
今では当たり前となった銀行での保険販売ですが、平成12年当時はそろそろ解禁かという憶測が飛び交っていた時期。
それに備え、銀行から第一号として派遣されたわけです。
けれども、保険会社としても銀行からの研修生の受け入れは初めてのこと。
各部署を転々とするも急造の机があるだけで、講義らしいものはほとんどなく、ほぼ半年間の放置プレー。
退屈を紛らわすため、他の銀行から派遣された真面目な研修生を堕落させることに注力し、こちらはかなりの成果を残しました(笑)
- 銀行員時代(本部)
研修後は本部へ異動となり保険販売の準備を進めましたが、自分の中の疑問が次第に大きくなっていきます。
銀行が掲げる「顧客第一」とは、いったい何だと。
実際に顧客の利益に貢献する企画を立案しても、上司にことごとくダメ出しされる始末…
最終的に銀行員では私が理想とする仕事はできないと確信し、退職を決意しました。
ところが、いざとなると怖いものです…
銀行員として10年、同期の中でも順調に昇進し、築いてきたものをすべて失ってしまうわけですから…
しかも予想していましたが、家族からは猛反対の雨あられ。
特に実家が事業を営み、家族で休日を過ごした経験が乏しい妻にとって、週休2日が保証されている生活は憧れだったようです。
しかし健全な嘘を交えた懸命な説得により、納得してくれたと思っていますが…(汗)
「もったいないことしたねぇ」と、今でもたまに言われます。
ですが、まったく後悔していません。
嘘偽りのない本心です。
だって辞めたからこそ、「顧客第一」を実践できているわけですから!
- 独立当初
かくして亀山保険事務所に身を転じたわけですが、少なからず勝算がありました。
銀行で培った金融の知識を活かし、ファイナンシャルプランナーとして世の中の真実を伝えれば、必ずやお客さまの理解が得られるはずだと。
事実、自動車保険が大半だった既存のお客さまに、生命保険をはじめとする様々な商品を提案し、滑り出しは順調そのもの。
本業以外にも、資産運用、住宅ローン、相続など、お金に関する相談が多く寄せられ、銀行員では決して口にできない本質を語りました。
「目からウロコが落ちた!」とお客様から感謝の言葉をいただくと、しみじみ思ったものです。
これこそが私のやりたかった仕事だと。
ところが、そんな矢先に予期せぬ出来事が起こります…
- 闘病
左耳の下のシコリには前職の頃から気づいていましたが、痛みもなく、また病院に行く時間もなく数年が経過。
ところが、人からも指摘されるほど大きくなってきたため、重い腰を上げて医療機関を受診しました。
結果、良性の腫瘍と診断され、六時間に及んだ手術も無事に終了。
ところが、翌朝になって先生の口から耳を疑うような言葉が…
「がん」だと宣告されました…平成15年12月のことです…
あのとき妻が流した涙、事情など分からない当時4歳だった息子の無邪気な笑顔を一生忘れることはないでしょう。
自分の運命を呪っていた私は、妻と息子によって気づかされたのです。
「自暴自棄になっている場合じゃない!絶対に生き残るんだ!」と。
結果、家族の絆が病魔に立ち向かう勇気と打ち勝つ力を私に与え、ついにがんを克服したのです。
- 現在
さらに幸運だったのは、業界NO.1の先生であり、9冊の著書を持つ五十田三洞師匠とのご縁をいただいたこと。
決して安くない対価を支払いましたが、師匠からは本物の仕事、即ち真の顧客第一とは何たるかを学びました。
おかげで私から売り込まなくても、「話を聞きたい」と自ら言ってくださる方たちに貢献することで仕事が成り立つ、そんな得難い環境に身を置くことができました。
がんに勝ち、師匠と出会い、今も私は生かされている。
ということは現在の仕事が私の天職なのでしょう。
これからもご縁をいただく方の「お金のストレスを減らし、人生の幸せを増やす」ことを使命とし、人として「真っ当な道」を歩んでいきます。
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